自力と他力のたとえ話

「自力と他力」

               海門寺 大住職
                       高木規好

私は今、大和にあります水泳のスポーツ・ジムに通っています。
目標は休憩なしで100メートルをクロールで泳ぎきることです。今はとにかく少しでも遠くに泳ごうと思って、力任せに足をバタバタさせながら泳ぐのですがすぐに疲れて沈んでいってしまいます。

ジムの先生はとにかく、力を抜いて、大きく息を吸って浮きなさいと教えてくれるのですが、うまくいきません。
先生はジムに水泳を習いに来る子供たちに最初に教えることは、力を抜いて、大きく息を吸って、大の字になれば体は、浮力という自然の道理で人間の体は浮くようになっているのだということを、水を怖がり、力任せにがむしゃらに泳ごうとする子供たちに幾度も幾度も同じことを繰り返しさせながら、体で、気付かせ、覚えさせて行くのだそうです。

今年の夏も、水での事故死のニュースが流れていましたが、溺れて死んでいく人は、なんとか岸にたどり着きたいという気持ちと、恐怖でパニックに陥り、自分の力で何とかしょうと力任せにがむしゃらに泳ごうとして力つきて、水の中に沈んでいってしまうのでしょう。

溺れている人は、自分が今溺れて死にそうである、自分の力で何とかしょうとします。しかし自分がパニックの状態であることに気づくことはありません。
これが自力という正体です。
私たちは人生のなかで、悲しみや苦しむ出来事に出合い、自分の力で解決しょうとして頑張りますが、自分の悲しみ・苦しみの中に自分がいるという自覚を持つことはできません。
なぜなら自分の判断がいつも一番正しいと思っているからです。
今自分が溺れているという事を、先生の導きや誰かの教える声で、我にかえり、「ああ、そうだ、力をぬいて大きく息を吸えば体は自然と浮くのだ」気づかせてもらえれば、浮力という自然の道理が私たちを助けて救ってくれるのです。
これが「他力の救い」です。

人生でも同じことが言えます、悲しみや苦しみで苦悩している私に、誰かの導きや声によって自分がそのような状況にあることを気づかしてくれれば、自然の道理に従って私たちは救われていくのです。
そして、「あ・そうだった力を抜けばいいのだ、そうしたら浮力の道理で私は浮くのだ。確かに浮力のおかげで助かった」となるほどと心の底からうなづけたときに、私たちは信心を得たというのです。
私たちは真実に出あい、真実によって救われたのです。

泳げるようになるには、溺れる、それに抵抗して体で頑張ることが必要であるように、人生で信心を得るには、人生でのムダなことすなわち自力での苦しみ、それを解決しょうとする努力がないと信心は獲得できないことがわかります。
いくら頭で考えても泳げるようにはなりません。人生も自分の頭脳で考えても信心は獲得出来ません。したがって人生でムダな努力ということはないのです。

大事なことは「結局は自力での努力は役に立たないと気づかされて他力すなわち道理にすべてを心の底から納得してお任せしていく」という心に転換させられていくことなのです。

そして、「浮力」は高校の物理で習う真実=道理です。しかしこの真実は私が習う前から存在する地球の真実です。
私の思いに先行しています。
同様に私たち一生の「生まれー生かされー死んでいく」この道理・真実は私たちの思いに先行している道理です。
それなのに、私たち人間は道理に反抗して、死を拒絶して逃げ迷い苦悩しているのが、人間の愚かさに気づかない現実の姿です。

この反抗する心が煩悩という我執の心なのです。自力の煩悩の迷いの自分に気づかされて、他力の道理に「なるほどまさにその通りでございました。」と真実の道理の呼び声に素直に『ハイ』と返事ができ、頭が下がる時、私たちは救われたというのです。
以上