浄土真宗の教え

3月の言葉

《自分を取りもどす》ということ
ロシア・ソチ冬季五輪が、関東地区45年ぶりの記録的な大雪の中で開催されました。国民期待の女子ジャンプの沙羅さんや女子フィギアの真央さんが,メダルに届かず残念でした。
ご本人は、真の実力を発揮できずに終わって、口惜しさは、いかばかりであったでしょうか?
スポーツは《心技体》と言われますが、最後の戦いは「平常心」の状態で臨んでいるかどうかでしょう。
私たちも、人生の岐路に立つような重要な試練に出あって、「平常心を失い、頭が真っ白になって、自分を見失った」経験を持っています。
さて、親鸞聖人は、試練に出あって、不安と恐れの感情で苦悩するときに、自分が自分を見失っていることに気づかされて、 道理(他力)を疑いなく受け入れて、道理に任せていき、自分を取り戻していくことを、「信心」といい、ご自分のことを「愚禿(ぐとく)釋親鸞」と言われました。
煩悩に惑わされて、不安と恐れにおののき、苦悩している、己の姿を阿弥陀如来の智慧の光に照らされて、知らされて、、いかに自分が愚かであることに気づかされた自分を愚禿「愚か者」といわれ、その愚禿が仏の智慧の光で心が転じられ、自分を取り戻し、何もにも、心をうごされない、金剛の信心を得た「親鸞」になることができましたということです。
私たちは、仏の智慧をいただき、常に平常心で生活していきたいものです。

2月の言葉

私たちは、自己中心的な狭く浅い価値観の中で生き、自分の姿に気がつきません。
お念仏から指摘されるまで、自分の姿を知ることができないことが多いようです。
そして、人の欠点ばかりが目につき、人の悪口ばかりいって、他者を傷つけ自分をも傷つけていることすら気づかず生きています しかし、自分のみにくい姿は、とても見えるものではありません。
自分を振り返ることのない、自己中心のこころを邪見憍慢な「煩悩」といい、これが私の迷いや、悩みの原因となっているのです。
阿弥陀如来の智慧の光明に出遇って照らされ、その自己中心的な愚かな姿に気づかされます。
 そして、その「気づけよ、必ず救う」という絶え間ないはたらきこそが阿弥陀如来の大慈悲であり、その智慧と慈悲に感謝する人間に育てられるのです。私の、かたくなで、みにくい心をくずして、素直に仏さまの言葉が耳に入るようになるには、何度も何度もくりかえし、教えを聞いて気づいてゆかなければなりません。一生涯が開法です。
 そうして、この煩悩だらけの私も、阿弥陀如来の大きな慈悲の中に、いだかれていると気づかせていただくとき、素直に、「南無阿弥陀仏」と称えさせていただけるようになります。
それこそが私の毎日の生活において大切なことであり、阿弥陀如来の智慧と慈悲に生かされている自らに気づく時、心豊かに生きる道を与え、安心して死ぬことができる道を教えてくれるものなのです。つらく苦しいことであっても、その事実をしっかりと見つめながら、力強く生きぬいていく智慧と力とをあたえてくれるものこそ、お念仏の教えです。 

1月のことば

《永遠のよりどころを 与えてくださるのが「南無阿弥陀仏」のお念仏の生活です。(坂東 性純)》 [#k83397f5]

1・明治維新後、特に戦後の日本は西欧化してきした。その価値観の一つにヒューマニズムがあますが、それは西欧の近代的な価値観に基づく性的な人間を絶対視するものです。
その人間中主義は、「極私的」とでも言えそうな個人主義の側面があります。そのような価値観の中で発展した現代において、確かに物は豊かになり便利になりましたが、人として生まれた喜びを感じ、「しあわせ」になったのでしょうか。
 どの時代であれ場所であれ、人間は「しあわせ」になることを求め、努力してきましたが、はたして本当の「しあわせ」を得られたかといえば、大いに疑問です。なぜならば、私たちの求める行為そのものが、自己中心的な欲望にもとづくものに他ならないからです。
その自己中心性(我執)に振り回されている人間を「凡夫」というのです。
2・今日では「しあわせ」を「幸せ」と書きます。その「幸(さち)」という漢字は「食」と同義で「むさぼる」という欲望をも意図します。
自己中心的な欲望によってむさぼり続け、足ることを知らない生活をしている限り、「幸」は「めぐみのしあわせ」でなく、「むさぼり」となってしまい、足らないことに不平不満をこぼすだけになっていくのです。さらに、自らの欲望を充足させるために他者を傷つけるだけではなく、気づかないうちに自分をも傷つけているのです。                            3・「しあわせ」は本来、「仕合わせ」と書いていました。
それは、それぞれのいのちの営みに相違がありながらも、それぞれの出合いの縁を認め合い、許し合って育みながら、ともに生きていることを喜ぶことだったのです。
4・それには、凡夫の身勝手な我執の殻が破られる必要があるのです。
5・その我執を破るはたらきこそ、本願他力の阿弥陀如来から賜った阿弥陀如来の智慧と慈悲のはたらきであり、その智慧と慈悲が、私たちがいつでもどこでも称えるお念仏、すなわち「南無阿弥陀仏」の名号の功徳なのです。