二種深信の意義

機の深信

一つには、自身は現在罪深い迷いの凡夫であり、はかり知られぬ
昔からいつも迷いにさまよって、これからあとも生死を出る手がか
りがない、と決定して探く信ずる。

法の深信                       

二つには、かの阿弥陀仏の四十人願は衆生を摂めとってお救いくだ
さる。
疑いなくためらうことなく、かの願力に乗託して、まちがいなく往生する、と決定して深く信ずる

機の深信とは、自らが地獄一定の存在であると、機の真実を信知することであり、法の深信とは、本願はそのような機をまちがいなく救う法であると、法の真実を信知することである。

この二種探信は互いに矛盾した事実(地獄一定、往生決定)の信知と理解されやすい。
しかし、

機の深信の意味するところは自らの力が浄土往生についてなんの役にも立たぬと信知することであり、法の深信の意味するところは、出離ひとえに阿弥陀仏の救済力にあると信知する。

すなわち

機の深信は捨機・法の深信は託法

機の深信は自らのはからいを捨てさるいうことである。
法の深信は阿弥陀仏の救済にすべてを任せる。

このように二種深信は、

自らの力がなんの役にも立たないと知って、はからいを捨てさるということは阿弥陀仏の救済の力にまかせきるということであり、阿弥陀仏の救済の力にまかせきるということは自らの力がなんの役にも立たないと自力のすたるところであつて、これは別なことではない。

『高僧和讃』にも、

煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば
すなはち穣身すてはてて 法性常楽証せしむ
とうたわれている。

二種深信の内容はまた、阿弥陀仏の光明とそれによって照らし出された自らのすがたであるといってよい。煩悩具足の身、地獄一定の身とは阿弥陀仏の光明によって照らし出された自らのすがたである。

この光明に遇うということは、本願力に乗ずるということと同じ意味である。
すなわち、
阿弥陀仏の光明を信知するということは、それによって照らし出された自らのすがたを信知することと別なことではない

二種深信深信と信罪福心

阿弥陀仏の救済の力の前には自らのなすどのような悪も障害とならず、また、自らのなす善なんの役にも立たない。
二種深信はこれを信知することである。しかし、
信罪福心はこれと相違し、このような悪を犯したものは浄土に往生
できないと考えたり、またこのような善を積んだからには浄土に往生できるであろうと考える心である。
これは本願の救済にすべてまかせきる心ではなく、本願を疑う自力心である。
それゆえ親鸞聖人は信罪福心にとらわれる心を仏智疑惑の罪として厳しく試められるのである。